戦慄的な幻想にみちたポーの「アッシャー家の崩壊」のイメージを現在(いま)にだぶらせて描く生と死とアラベスク
創作ノートより
一九九五年の日本は、天災・人災に激しく揺れた年だった。平穏な日常の中に安住していた私たちは、思いもかけない出来事の連続におののいた。空が真っ青に晴れていても、きれいだなぁと深呼吸する前に、美しすぎる、天変地異の前触れではないかしらと思ってしまい、網棚の上に残された荷物に怯える、そんな日々だった。
一九九六年、静かで穏やかな年でありますようにとの祈りとはうらはらに、まるで一世紀のあくが一気に吹き出したような幕開けになった。
政治も経済も教育も宗教も医療さえも、あやかしのもつれた糸の向こう側で、黒く蠢く魔の世界のようだ。世紀末とは次の世紀の芽吹きのために、腐敗して崩れてこやしになる、そんな時代なのかもしれない。
中学生のころ、叔父の家の屋根裏部屋でがらくたの向こうに積み重なった古い立派な本を見つけた。踏み抜きそうな床板を回り込んで手にしたポーや乱歩が不思議な世界に引き込んだ。こんな古い記憶がふと蘇り、現在(いま)の状況に重ねてみたくなった。
「アッシャー家の崩壊」のイメージに鏡花の妖しさや安吾の透明な虚無感を薄いベールのようにかぶせた、そんな舞台を作ってみたいと思う。’96年2月
この舞台は「アッシャー家の崩壊」の舞踊化ではない。最近、日本を揺るがした数々の怖ろしい事件の作品化でもない。
しかし、特異な作家ポーの作品ににじむ狂気と崩壊への恐怖が世紀末の現在(いま)に二重写しのように見えてきた。そして、その奥にある人間の哀しみが……
崩壊から萌芽へと、現実と幻想を織りまぜて展開する構成にする。’96年8月
試行錯誤しながらひとり言のように書いたメモである。